公開: 2019年7月29日
更新: 2019年7月xx日
メソポタミア文明のバビロニア王国を治めていた王の一人、ハムラビ王は、巨大な王国をしっかりと治めるため、全国民が守るべき法律を定め、楔形文字で粘土板に記しました。それが今日「ハムラビ法典」と呼ばれているものです。ハムラビ王は、その法典の中で、国民を3つの階層に分けていました。高貴な人々、普通の人々、そして最下層の奴隷などでした。さらに、それぞれの人々を男性と女性に分けていました。人類の文明が発祥してすぐに、奴隷制度を導入して、労働をさせていました。その後、古代ギリシャでも奴隷制度を踏襲していました。古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスも奴隷制度の正当性について述べていたそうです。さらに、古代ローマ帝国でも奴隷制が踏襲され、労働の大部分は奴隷によって担われていました。ただ、古代ローマの奴隷は、しっかりと働いてお金を貯めると、奴隷から自由人(普通の市民)になれるような制度を採用していたそうです。古代ローマ帝国が滅びて、中世の世界になると、古代ローマ帝国時代のような奴隷制はなくなりましたが、農業の労働を担う「農奴」の制度が生まれました。中世が終わって、近代になっても、ヨーロッパ諸国のアジアやアフリカ、そして南アメリカの植民地では、新しい形の奴隷制度が始まりました。そして、アメリカ合衆国では、南部の農園での農作業に従事する白人奴隷がヨーロッパからアメリカ合衆国へ送られました。そして、オランダがアフリカの植民地で黒人の奴隷をとらえ、アムステルダムの奴隷市場で売買し、そこで買った奴隷をアメリカ合衆国へ売るようになりました。黒人奴隷は、期限なく奴隷として働かせることができるだけでなく、アフリカからヨーロッパ、そしてアメリカ大陸へと運ばれるため、体力が強い人々しか生き残れない環境を生き抜いた人々で、過酷な環境でも働くことができる、酷使できる安い労働力として、ヨーロッパ生まれの白人奴隷よりも重宝されました。これが、米国社会に根付いた黒人奴隷の歴史です。その後、黒人奴隷の制度が約100年間続き、その後も、100年間近く、黒人たちは差別されたため、「白人は、人種的に黒人よりも優れている」とする人種差別的な意識が白人の間で広まり、現在まで続いています。
マイケル・サンデル、「これからの正義の話をしよう」(2010年)、早川書房